「人の役に立て」という呪い

ブログでもインスタでもYouTubeでも、副業でお金を稼ごうとすると「人の役に立て」とくり返し目にする

人の役に立つからお金がもらえる、当たり前の事だ

でもどうやら私は、それに吐き気をもよおす苦痛を感じるらしい

人の役に立てることはわたしも嬉しい

けど、

「人の役に立つこと〝だけ〟を書け」

と言われると、つよい不快感を感じる

まるで「役に立たないことはすべて無価値だ」と言われてるみたいで

べつに間違ってはいない。お金を稼ぐことにおいて、これほど近道で単純明快なことはない

実際わたしもそう思っていた

なんなら、

「SNSで発信するときは、誰かの役に立つ、意味のあることを書かなければいけない」

という呪いにまでかかっていた

そして何回も文章を書いては、何度も消した

何度書いてもしっくりこない

なにかが違った

なんか気持ちわるかった

人から良く思われないといけないというプレッシャーと、表面だけ取り繕おうとする浅いことば、本音はどこにもなかった

そんなモヤモヤを抱えながら数年が過ぎたころ、さらにもう一つ、致命的なことが起きていた

「他人には役に立たないけど、自分にとっては大事なもの」

が見えなくなっていた

お金を稼ごう、人の役に立つことだけをやろうとするあまり、日常で自分が感じる「小さな喜びやしあわせ」を無視するようになっていた

「自分は好きだけど人の役に立たないからイミないな……」

とか、

「自分はやりたいけど需要がなくてお金にならないからやめよう……」

とか。

いま思えば、人の役に立たないもの(=自分だけが好きなもの)を無意識に避けるクセがついていた

ふと気がつくと、日常でしあわせを感じる瞬間がなくなっていた

「あれ、わたしが好きなもの、なんにもない……」

生きがいも、生きる気力も、すべて失った気がした

どこにも喜びがない、苦痛しかない毎日

毎日死にたくてたまらなかった

何もかもどうでもいいと思った

とにかく早く死にたかった

わたしはお金を稼ぐことを諦めた

自分がお金を稼げない無能だということをイヤというほど知ったからだ

それから少しずつ時間をかけて、自分の好きなものを思い出していった

はじめは何に対しても興味がもてなかったが、「意味のない事こそやる」という言葉に出会ったおかげで、夢中になれるものをいくつか見つけることができた

夢中になれるのは最高にたのしい

昔からカネのために頑張れたことは一度もないが、好きなもののためなら寝食を忘れて熱中できるということを思い出した

今でも生きるのは苦しい

でも「今すぐ死にたい」から「明日死んでも別にいいかな」くらいにはなった